「当たり前」にはレベルがある。
どんな職業でも最低出来なければいけないレベルというものが存在します。
もちろん、メガネ店にも。
眼鏡士が自分を「眼鏡士」であると名のる以上、ある一定の事はできて当たり前です。
フィッティングなんて出来て当たり前。
検査なんて出来て当たり前。
そりゃそうです。
でも、「当たり前」ってどういう意味なんでしょう?
例えばお掃除。
毎日お掃除をしているとしても、毎日毎日同じところだけを同じパターンでやり続けてもお掃除ですが、毎日数箇所だけ汚れているところを見つけてそこを綺麗にする事を繰り返すのもお掃除です。
では、どちらが綺麗になるのでしょう?
そりゃあ全部を毎日徹底的にやったら清潔極まりないですが、それだけで1日が終わっては意味がありませんから決まった時間で比べたらのお話です。
つまり「掃除をする事が目的」のお掃除と「綺麗にする事が目的」のお掃除では、同じ「お掃除」でも全く意味が異なるという事です。
掃除をするのは当たり前でも、それで得られた結果は大きく異なるわけです。
フィッティングをするのは当たり前です。
でも「フィッティングをする行為」そのものに意味は無く、「フィッティングによって得られる結果」を皆さんは求めているのではないでしょうか?
「そんな事は当たり前でしょ?」と言われても、何をもって「当たり前」なのか?
完璧なフィッティングが出来る事が「当たり前」なのだとしたら、ほぼ全ての眼鏡士は眼鏡士を名乗れないでしょう。
ある一定のレベルを超えている事が「当たり前」なのだとしたら、少し増えるでしょう。
しかし「行為」そのものを「当たり前」だとするならば、全ての人が眼鏡士です。
でもそれは、綺麗な場所を磨き続けるお掃除となんの変わりもありません。
「当たり前」という言葉の受け取り方は一つではありません。
とても曖昧です。
私は完璧なフィッティングが出来る事が「当たり前」の眼鏡士になりたいと思っています。
でもそれは全ての人に完璧でなければならないわけで、神でなければ成しえない領域と思われるものです。
私には一生かけても無理でしょう。
でも、それを目指して昨日より今日、今日より明日を積み重ねてゆく事が人に喜ばれる事に繋がると信じています。
失敗だった部分や気が付いた部分、新しい工夫やノウハウを磨く事が、本当の綺麗さを保つ手段としての「お掃除」であると思うのです。
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