読書と視覚
こんばんは! プラオプ ハセガワです。
さて皆さんは読書はお好きですか?
僕は遅読ですが大好きです。
TVが完全に普及している世の中に生まれた僕等の世代は生まれながらにして映像に触れ合っていました。
文字が読めない小さな頃は、TVに映し出される現実に近い「映像」という形で空想の物語にドキドキワクワク。怪獣が現れても正義の宇宙人が現れてやっつける姿に憧れたり、14万光年先への宇宙の旅も「絵が動く」アニメという表現で地球の危機を救う大航海にロマンを感じたものです。
少し大きくなって文字が読めるようになれば毎週発行される漫画雑誌の中で7つの玉を集める旅をしながら大魔王をやっつけるなんて物語の先が楽しみで毎週決まった曜日が早く来ないかとワクワクして・・・
いずれ語彙が増え、沢山の漢字が読めるようになると活字だけの本に夢中になって銀河を股にかけた英雄同士の戦いに思いを馳せながらいつの間にか夜が明けている・・・
そんなふうに歳を重ねるごとに空想の物語を楽しめる方法が沢山増えていったわけですが。面白いのは表現方法が高度で現実に近く見えるものほど幼くても楽しめて、文字だけというシンプルに表現されたものほど大人にならないと楽しめないという事。
映像もよりリアルに現実感のあるものの方が分かりやすかったりします。昨今のCGなんて凄いですよね・・・
でも私たちは文字だけで書かれた物語の主人公に共感して涙を流す・・・。
なんでこんな事ができるでしょう?
小説を読んでいる時、頭の中で再生されるのは「文字」でしょうか?
ハッキリと主人公の姿を絵にかけないとはしても、物語の風景に佇む主人公の姿を思い描く事ができているのではないでしょうか?
そしてその声で話された言葉を確かに聞いているのではないでしょうか?
作者の脳内で作られた物語の世界を「言葉」にして文字に変換してそれを読者が受け取り脳内で再生する。文字はその橋渡しをする「記号」です。
例えば「陶磁器のような白い肌に獅子を思わせるような豪奢な金髪、美しい碧眼には燃えるような野心が佇む・・・」
そんな銀河帝国の皇帝になる若者の姿は「陶磁器」「白」「獅子」「豪奢」「金髪」「碧眼」「燃える」という「キーワード」を読者が知っているから脳内に描けるわけです。
では「陶磁器」とは何か?
その意味を「言葉」で知っているだけでは「イメージ」にはつながらない、それを現実世界で「見た事がある」「触れた事がある」から「イメージ」につながるのです。
現実には存在しない宇宙戦艦の壮大な姿は挿絵や表紙のイラスト、はたまた他のSF映画で見た宇宙戦艦が脳内のイメージを補完してくれます。
読書を楽しめるのは、文字が読める事だけではなく、読者の人生経験が必要なのです。
昔読んだ物語も年齢を重ねたら全く違うように感じられるというのは人生経験が深みを増したからかもしれません。
「テレビばっかり見てないで本を読みましょう」とは言っても、物語の表現で使われている「もの」や「こと」を「見た事」「聞いた事」「触れた事」がなければそれはただの文字の羅列でしかありません。
今や当たり前になっているTVをはじめ映像メディアは、生きている間に行く事が出来ない場所や見る事が出来ないものを映し出します。
インターネットは初めて聞いた言葉が何であるか?を映像で見せてくれます。
「本」が紙から電子化されていったとしても「読書」そのものは変わらない、むしろ映像が溢れる世の中になり、より多くの語彙が養えるようになったからこそ「読書」をもっと面白いものにしているのかもしれません。
実はテレビばっかり見ていたから読書が楽しめる・・・なんちゃって。
「視覚」とは「脳」に鮮明で正確なイメージを映し出す事だとすれば、単に文字を読み取る事ではなく、物語の世界を頭の中で描く事を言うのかもしれません。
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